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June 19, 2008

北添です。今回は、私がバーテンダーになった当時のお話をさせていただきます。思い起こせば、もうすぐ20年近く前になってしまうのです。

すいません、浅井さん。
時間ばかりが過ぎてしまい、今頃、やっと第二弾に突入できました。
今回は、私がバーテンダーになった当時のお話をさせていただきます。

思い起こせば、もうすぐ20年近く前になってしまうのです。まだまだ若い気持ちでいますが、あっと言う間に時は過ぎていくのですねー。
と、またまた物思いにふけりそうになりました。
もう一度、気を取り直して。

そのころ、私にとって印象深い出来事は、昭和天皇が崩御されたことです。
東京中のネオンが消え、街が真っ暗になり、不安な気持ちになった事をよく覚えています。
「これから世の中どうなってしまうのだろう」と何もわからない、何も考えてない私でさえ考えてしまうような出来事でした。

当時の小渕前首相が、「平成」と書いたパネルを持ち、新しい年号は「平成」と発表されました。
すべての方々が違和感を持ちながら、どうにか慣れていった当時の事です。
今となっては、「平成」があたりまえで、「昭和」が大変昔のことの様ですね。
しかし、日本における「BAR」の文化は、間違いなく、私共の師匠、大先輩方のお力で「昭和」の時代に栄え、文化として根付き、「BARTENDER」のみならず、「サービス業」すべてが発展し、社会において認められてきたのだと思います。

そんな事が起こってから、私自身少しは変わったかなと思いきや、またいつも通りの生活が始まり(当たり前ですが。思いっきり人任せでした!)、さんざんあれだけ考えたにも関わらず、相変わらず目標を失った人生に突入しており、
             「やっぱり、俺ってだめだわ」
なんて、考えている暇があったらバイトに行こうみたいな日々で、自分自身
             「どんげかせんといかん!」
とおもっておりました。
そんなある日の朝、私はいつも通りに起き、バイトに行く準備をしていた時です。

記憶にある方もいらっしゃると思いますが、多分「テレビ朝日」さんだったと思います。
「立川志の輔」さんが一日、色々な職業で「修行」するみたいな内容の番組が当時あって、毎週色々な職業が取り上げられていました。

その日は、たまたま銀座の「BARTENDER」という職業が取り上げられ、我らが師匠 澤井慶明 (以後、澤井会長と書かせていただきます)氏が、出演していました。
まったく無知で、あほな私は最初、「へー、銀座のバーテンか!」などという、今考えてもほんとに恥ずかしいレベルでしか考えられずに、番組をさっと流し見をしていました。
しかし、よくよく見ているとバーカウンターには、見たこともないお酒がずらりと並び、お店には歴史をはっきりと感じ取れる重厚感があり、澤井会長をはじめ、スタッフの方々の見事なたち振る舞いに私は釘づけになり、最後まで見入ってしまったのです。(このあと、バイトを遅刻してしまったことは言うまでもありません。)

その時、女性バーテンダーとして初めて全国で優勝し、草分け的存在の永田奈々恵さんが堂々とカクテルを作られた姿は、自信に充ち溢れ、充実しており、何よりも「かっこいいなー」と思ったのです。

そのあと、会長が独特のシェイクでつくって・・・
「わー、すっごい、ド迫力」とびっくり致しました。
バックバーに並んでいるボトルが、揺れて落ちてしまうのではないかと思うほどのド迫力だったのです。

その時の私には、すべてに全く自信がなかったので、ほんとに正反対の状況だと感じました。

「バーテンダーって、かっこいいなー」

「BARは人なり」と言います。
バーテンダーとしての所作動作、清潔感、マナーといった事が、一番に必要不可欠なことです。
これは、普段から意識を持ち、心がけなければ簡単にはできない事です。

私には、今も足りませんが、その当時はもっともっと足りませんでした。
これは、バーテンダーとして高い意識を持つことが一番大切だと思います。
どんなにお酒に詳しくても、どんなに素敵なお店でも、バーテンダーが人間性を磨く努力をしなければ、いいお店にはならないと私は思います。

銀座 「ST・SAWAI・オリオンズ」

その後、私は「どうしてもあのお店に行ってみたい」と思い、銀座など私なんかに縁もゆかりもあるわけなく、右も左もわかるわけもないので「お店の名前と場所、教えて下さい」とテレビ局にお手紙を書きました。
そしたら、ディレクターの方がとても良い方で、澤井会長に伝えて下さり、無事、銀座「ST・SAWAI・オリオンズ」にうかがうことができたのです。
そして、この瞬間から私にとって、とてもゆかりのある場所となりました。

場所がいまいちわからず、結局お店に電話を掛け、わざわざ澤井会長が下まで迎えに来てくださり、「あっ、テレビの方だ」と思いながら緊張し、初めて銀座7丁目、ヤナセの前でお会いすることができたのです。

初めて銀座の「BAR」に入ったときの“あの”緊張感は、今でも忘れられません。

わたしにとってのありったけのお金(5万円程度)を握りしめ、澤井会長と一緒に雑居ビルの10階に上がり、忽然と現れる扉を開けると、そこにはまったくの別世界が広がり、時代はバブルの絶頂期で、人が溢れ、まるで映画のワンシーンみたいな華やかな世界が広がっていました。

70坪ほどの広さですが、綺麗に着飾った女性のお客様や素敵なスーツでピシッとした男性のお客様で賑わい、生のピアノの伴奏が入り、歌っている方、踊っている方がいらして、ホールスタッフは慌ただしく走り周り、バーの中では2名のバーテンダーが忙しい中に“優雅さ”を持ち、目の前にあるオーダーを次から次へと作っている姿が、数秒間の間に私の目に飛び込んできた、目の前の“現実”でした。

とにかく、私には衝撃的で、未だに忘れられない光景です。

居酒屋などにしか行ったことのない私は、すべてに感動したのです。
当時、先輩の日下郊介さん(現在、高松 BAR CANCUN オーナー)が、初めての私に、銅製のマグに入った「Moscow Mule」を作って下さり、“うっまー”“これが本物”と感じ、そこから最高の経験と最高の時間をいただいたのです。

そして、それから数カ月後、私は「ST.・SAWAI・オリオンズ」の見習いスタッフとなっておりました。

その当時のメンバーで現在、一番身近にいらっしゃるのは、横浜の「BAR CASABLANCA」のオーナー、山本悌二さんです。グレイグースウォッカでも、ご一緒にお仕事をさせていただいております。
山本さんは20代の前半に、今のお店をオープンされ、努力に努力を重ねて、全国大会において優勝。現在は経営のかたわら本なども執筆されております、私の大先輩です。
「CASABLANCA」と言う店名がぴったりで、山本さんの感性が随所に現れ、到底まねることのできないお店です。
「CASABLANCA」と言えば、ハンフリーボガートとイングリットバーグマン演じる名作ですが、
         “昔の事は忘れた、先の事はわからない”
なんていいながら、
最高のシャンパンカクテルで、“この瞬間の永遠に”と乾杯するシーンを思い出し、バーテンダーとして“いやらしいな~”と山本さんの事を見ていたのを思い出します。 

         “俺は酒場の店主だ”

 

あの頃、一度は言ってみたいセリフだと夢見ていましたね。

しかし、実際お店に入り、現場を知れば知るほど“キビシイー”と感じ、華やかな表の世界とはまったく異なり、裏のお仕事の現実を目の当たりにしたのです。

煌びやかで、華やかで、優雅で、カッコ良くて、すぐにカウンターに入れて・・・なんて勝手に想像し、あこがれてきたのが現実は、肉体的にも精神的にも大変でした。
当時はバブル、お店は連日“満員御礼”で“猫の手も借りたい!”というほど忙しく、お客様は70席のお店に対し一日200人ほどの入客数があり、カクテルは日に300~400杯出ていたことを記憶しています。

お店のお客様には、政治、経済、芸能、スポーツ、ジャーナリストなど私でも知っている、著名な方々が集い、特にカウンターには、お酒にこだわりのある方、くせのめちゃめちゃ強い人(まちがえても名前は言えない)が集まり、カウンターの先輩方は連日“見事”バーテンダーのお仕事をされておりました。

       

「いつか俺もあそこでバーテンダーになってみせる!」

と何度も決意し、固く誓ったものです。
しかし、現実は共同トイレの掃除から始まり、お店の立ち上げ準備で店内の掃除、先輩の食事の準備、営業が始まれば、“怒鳴られ、蹴られ、叩かれ”とさんざんで、睡眠時間も取れず、まさしく“修行”させていただいたのです。
歩けば、“歩き方がなってない”と元田舎の不良時代の癖が、体の随所から知らず知らずに出ており、すべて指摘されておりました。
それはそうです。日向の不良、いなかもんが銀座の最高の“BAR”にいるのですから。
そんなこんなで1年半、言葉使いもどうにか人並みになり、歩き方まで教えていただいた
屋良支配人に“そろそろカウンターに入るか?”と言っていただき、初めてカウンターの中に入らせていただいたのです。

「オーセンティック・バーとは、世界中で通用する正式なカクテルが味わえるお店」
「バーテンダーとは、おいしいカクテルを作ることが50%、人格を売ることが50%、人格を磨け!」

未だにできていない事ばかりで、書きながら初心にかえっています。
つぎはカウンターで経験したことなど、書かせていただきます。
長々とすいません。

2008 06 19 [16北添智之(ミクソロジスト)] | 固定リンク | コメント(2)

June 11, 2008

ゼットン副社長 鈴木伸典.→ミクソロジスト、北添智之。結構、波乱な人生を送っているが、唯一、続けられている事は「バーテンダー」という職業。その理由は・・・

神谷様からの、
「BARTENDERはお医者様と同じ様に、人を救うことができる職業だよ」
そして伸典.さんから、
「最後にBARに行きつく」
と言ったすごい流れで、私の様なものに繋げて大丈夫なのでしょうか?
と非常に緊張し、プレッシャーの中で書かせていただいております。

ZETTON副社長 鈴木伸典.さんとは、現在ご一緒にお仕事をさせていただいております。

以前は、毎月名古屋や東京でお会いし、お酒を交わし、シガーをやり、と繰り返していたのですが、最近は伸典.さんが以前にも増して忙しくされており、一緒に飲みに行く機会が減っておりました。
そんな4月のある日、私がZETTON様のお仕事で名古屋に出張させていただいた時のことです。伸典.さんと「久し振りに会いしましょう」となり、名古屋で合流、錦で朝まで飲み明かしたのです。
お互いお酒も入って、いつも通り?仕事について熱く語りあっておりましたら、

「師匠、(ちなみに、私は師匠と呼ばれるような経験があるわけでもなく、偉いわけでもなく何故か師匠!)レストラン人の繋がりというブログがあって、柴田書店様のサイトで今、僕が書いているので次、師匠にバトン渡していいっすか?」

みたいなお話で、もちろん今までブログなんて書いたこともないし、書くほど経験もないし、“これは、冷静に返事しないとやばいかも!”と察知し、でもお酒はぐるぐる回るわ、シガーでへろへろだわ、といった感じでぎりぎり即答はまぬがれました。
 後日、東京に戻り、「月刊レストラン人のツナガリ」を拝見したとたん、バックナンバーを見て“こりゃなんじゃー、凄い方ばっかり” “やられているお仕事のスケールが違う”
 “やっぱしこれはまずい” “俺には重すぎ”と、とっさに察知し、伸典.さんに遠まわしにお断りのメールをさせていただいたのですが・・・
「ぜひ、BARの事を語ってください」と一言、言っていただき私のようなものが書かせていただくことになりました。
私のようなレベルですが、「バーテンダー」として経験してきたこと、また、これから取り組んでいきたい事を、文章を書くのが大変苦手な上、ボキャブラリーも無くつまらないと思うのですが、ここはひとつ頑張って書かせていただきます。

 日頃より、株式会社ZETTON様には大変お世話になっております。稲本社長をはじめ、伸典.さん、梶田さんや内山さん、松山さん、他多くの皆様には、本当に楽しくお仕事させていただき、この場をお借りしてお礼を申し上げます。

ここにきて、自己紹介させていただきます。
私は北添智之と申しまして、バーテンダーをはじめて20年目になります。
私の名前も字画が「32」で伸典.さんと同じなんだと、嬉しく思いました。
確かに、字画はとても良いといわれてましたが、あらためて自慢できそうです。
私は九州、宮崎の日向という小さな町の出身ですが、この「北添」という姓は四国 土佐藩の姓です。
私の母は宮崎の女で、父は高知の男です。ちなみに私は6人兄弟の末っ子、五男坊。
甘えん坊の予定でしたが、おやじの会社が倒産と同時に地獄が始まり、田舎の不良になり、落ちるわ落ちるわの中学時代を経て、どうにか夜学に通いつめ、そこで出会った方々に人として大切なことを学ばせていただき、とても穏やかな性格になりました。

話が脱線してしまいましたが、両親がどっちも南国で、暑苦しい顔立ちですが、(私もかなり暑苦しい顔だといわれ続け、ルー大柴に似ていると若い時から言われ続けています、うれしくないです。)自慢が一つだけあります。
それは、この「北添」という姓です。なかなか無い苗字ですので、良いことをしても、悪いことをしてもばれてしまう!そこがいいなとおもっています。いやまずいかもしれません。

幕末にクーデターを起こそうとした池田屋事件の「北添佶磨」が私の一族にあたると聞いています。
京都に行った折には、必ず木屋町の「池田屋旅館の跡」に行き、今はパチンコ屋に変っていますのでパチンコ屋の前で「ハイ、マティーニ」と写真を撮っては、物思いにふけっていました。

私も結構、波乱な人生を送っておりますが、唯一、続けられている事は「バーテンダー」という職業です。
なぜ?この仕事を始めたのかは自分でもわかりません。しかし、続けている理由は分かります。

この仕事が、大好きなのです。

私の師匠、故・澤井慶明氏が、バーテンダーの「バ」の字も知らず、まるで使いものにならなかったこの私をしっかりと鍛えてくださり、この仕事を好きになるよう導いて下さったのです。

私は、水商売は幼少時代の思い出から大嫌いで、酒飲みのオヤジも大嫌いで、だからとことん落ちぶれた中学時代、あえて酒を飲んでいました。
初めて自分で飲んだ酒が「CUTTY SARK」で、今でも忘れない。まずかったなー、あの頃。
あっ、でも、今は大好物ですよ。ウイスキー全般。
CUTTY SARKはグレンロセスをキーモルトとしてブレンドされた上質のウイスキー。
今はE・S・JAPAN様がお取り扱いされておられる商品です。ねっ、福田社長!!
E・S様で思い出したのですが、その当時「E・T」というSF映画がありましたが、E・Tが冷蔵庫からビールを取り出し(確か、Coorsだったはず)知らずに飲んで酔っ払って倒れていたのを覚えています。お酒って、いつの時代でも大切なアイテムですね。私が夜学に通った時も、兄貴の影響で「Easy Rider」見て、皮ジャン着てバイク乗って。あっ、でも俺、チャイナ服着て乗ってたなー!なんでだろう。
バーボン(Jim Beamのスキットルボトル)飲んで、マリファナやって、コカインやってみたいなあり得ない自由。映画ってすごいな!憧れる!実際、できないけど。

また脱線してしまいましたが、私は今「水商売」のど真ん中でお仕事させていただいております。
今現在、青山を拠点にし、銀座2店舗、ZETTON様と技術協力させていただきながら、各メーカー様と契約し、プロモーションカクテルや商品開発、セミナーなどやらせていただいております。
E・S・Japan様 
 スーパープレミアムウオッカ・グレイグース ブランドアンバサダーとして。
キリンビール様 
 シーバスリーガル カクテルアドバイザーとして。
レッドブル・ジャパン様
 レッドブル プロモーションカクテルアドバイザーとして。
他、アパレルブランド様のパーティーカクテルのプロデュースなどやらせていただいております。
今、日曜の夜ですが、明日は鈴木雅之さんが出演する番組に朝から出させていただきます。今回、CDのプロモーションカクテルを作らせていただきました。大変貴重なお仕事をさせていただきました。

今日の私と仕事は、間違いなく銀座で20代に修行をさせていただいた事が基盤となっております。
次回は、澤井慶明に師事し教わったこと、またお客様から学ばせて頂いたことを書かせていただきたいと思います。

最高のBARです。「銀座 ST・SAWAI・オリオンズ」

「バーとは、幸福な時も不幸な時も、元気づけ、気分をよくし、慰めになってくれる酒を見つける場所。」

2008 06 11 [16北添智之(ミクソロジスト)] | 固定リンク | コメント(4)