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松井春澄×鹿児島・指宿酒造社長・南荒生さん(その1)

今回は鹿児島県の酒造会社「指宿酒造」社長の南荒生さんにお話をうかがいます。
南社長とのおつきあいも古く、やはりお酒・焼酎を通じてのご縁でした。
東京など都心部でまだ焼酎が飲まれていなかった10年前、わたしは鹿児島で、素晴らしい焼酎と出逢ったのです。

松井春澄:

最初に私が鹿児島へ行ったのが10年ほど前。当時は焼酎ブームの前の前で、東京には焼酎文化なんてありませんでしたし、焼酎と言えば所謂レモンサワーとか酎ハイとか、焼酎をロックで飲むなんて考えられない時代でした。

そんな時代に鹿児島へ降り立って、居酒屋へ行ったんです。というのも、以前クライアントさんから、鹿児島はカクテルが根付かない、若い子でも割り物を飲まないんだって言われたんですね。私はその意味がよく分からなくて、実際に居酒屋へ行ってみたら、皆焼酎のお湯割りを飲んでるんです。え?って私も飲んでみたら、芋焼酎の香りがすごい華やかで美味しくって、これはわざわざレモンで割って飲まないなって。それから私も焼酎が好きになって、ロックや、冬だとお湯割で飲む様になったんです。あとは水で割るクロジョカで飲む飲み方も、その時に知ったんです。

南社長:
前割りですね。

松井春澄:
その夜に飲む焼酎を、前の日に水で割って仕込むんですよね。そうすると水と焼酎が混ざって、一体感が出て、まろやかになってまた飲み易くなるんです。でも東京に帰ったら相変わらずサワーでした。

南社長:
そうですね、店頭では並んでいなくて、あっても麦焼酎などで、芋焼酎は居酒屋さんとか、デパートの隅の方に本当にちょっとあるぐらいで、もうほこりをかぶっているような状態でしたね。

松井春澄:
その後たまたまホームパーティーで友人に戴いた焼酎が森伊蔵だった。これがまた焼酎とは違うブランデーのような感じで美味しかったんですね。それから焼酎のブームが来て、多分はやりの味に変えてきたんでしょうね、絶頂の頃にはブランドの焼酎がみな同じような味になって来て、なんかスムーズな感じなんです。

でも、それが私はあんまり面白く無くて。で鹿児島へ行くと、地元の焼酎はやっぱり美味しいんですよ。またその中でも、値段じゃないんだなって感じ始めた時があって、そんな頃南社長と出会ったんです。

南社長は長寿庵っていうおそば屋さんもされているんですね。そこで地域密着の飲食もやられていたんですけど、昼はいいんですが夜をもう一つ乗っけたいと言う事で、たまたまうちのスタッフが営業で行ってたんです。で、私も鹿児島となにかと縁があって、お伺いして南社長にお会いしたんです。そうしたら、実は造り酒屋で、話を聞いたら焼酎で、私、すごい好きですって(笑)。

南社長:
いま店は3店舗です。長寿庵が2店舗、それからレストラン。長寿庵は私の母が創業者で、レストランの方は2008年で30周年を迎えました。

元々は南酒蔵と言う蔵で、「長寿」っていう銘柄だったんですよ。それからうちの母がおそば屋を始める時に銘柄の名前をとって長寿庵としたんです。東京では結構ある名前らしいんですが、九州には一店舗しか無くて、テレビ番組がその取材に来るっていう所をうちの女将が断ったんだって。そんなの嫌だって。(笑)まあそんなこんなで、長寿庵の方はもう50年近いのかな。

またうちの従兄が、やはり指宿で旅館をやっているんですね。そこも元々は「きら」って言う銘柄の焼酎を作っていたんですが、そこから旅館の名前を「きらく」ってしたんです。でも大阪とか東京の人に聞くと「きらく」って安宿のイメージがするとの事で、今の「しゅうすいえん」に変えたんです。


松井春澄:

鹿児島はすごくいいところで、一人で行っても全然苦じゃない。みんなが親切だから。すごい楽しみで。それで始めて行った時は、まずお店へ行ってプレゼンして、焼酎の工場を見学させて頂いて、生のアルコールを飲んで、それで女将さんに驚かれて。(笑)

南社長:
ハハハ…(笑)。丁度醸造時期だったのかな。

松井春澄:
南社長は28才で帰られて、お店をされましたよね。その時は酒蔵の方はどうだったんでしょうか。

南社長:
やっていましたが、小さい蔵でした。僕で4代目。終戦の頃にはもう、元々酒蔵の免許持っていまして、それから指宿内の酒蔵五社で協同組合を作ってこの利右衛門っていうのを立ち上げたんです。それがもう22~23年前の話です。昭和の最後、63年ですね。

松井春澄:

子供の頃から焼酎を作っている所を見て育ったっていう感じですね。

南社長:
はい、もちろん。蔵は遊び場でしたから。それこそ昔は全部カメ仕込みで、叱られたときなんかカメに入れられるんですよ。出て来られないし、真っ暗で怖いんですよ。(笑)

そもそも利右衛門っていうのは琉球から薩摩芋の苗を鹿児島に持って来た人の名前なんです。丁度一昨年三百年祭があったところなんですが、その方の名前をいただいたんですね。この辺りに徳光(とっこう)神社っていう神社があるんです。タレントさんで徳光さんっていらっしゃるじゃないですか。以前あの方が、自分と同じ名前だって年末の特別番組でそこへ来た事もあるんですが、その神社はこの利右衛門さんをお祀りしている所なんですよ。

鹿児島では有名な方ですよね。今年も10月18日に、利衛門祭ってこの方のお祭りがありますよ。
実は新しい会社の指宿酒蔵を立ち上げた時に、銘柄を一般公募したんです。その仲で一番いいなあって事で、この利右衛門っていう名前を採用させてもらったんです。

昭和63年に合併してずっとやって来て、2008年の7月に株式会社にしたんです。県内に協同組合が6社あったんですが、その内のうちも含めて3社が株式会社に変わったんですね。この6社はすごい仲がいいんですよ。ライバル同士なんですけど。3ヶ月に一度勉強会をしたりして、6社合同で宣伝企画をしたりもするんです。

それこそ8年前ぐらいですかね、焼酎ブームが来る前に、当時6社代表の若手で銀座のママさんやオーナーをお呼びして、帝国ホテルでちょっとしたパーティーをやったんです。小さい会場でしたけど、それだって一社だけでは難しいですもんね。やる前はお客さん来てくれるのかって心配していたら、大盛況。お陰さまで(笑)。

それを企画してくれたのが、NHKのOBの方で、その方が色んな文化人とかに来賓という形で働きかけて下さったんです。で、肝腎の一流どころのクラブのママさんや経営者の方が、焼酎を置いてくれるようになったんです。

松井春澄:
そういう地道な小売りで焼酎を売り込んでこられたんですね。

南社長:

その後ですもんね、焼酎ブームに乗って今あるのは。
本当に置いていただけるだけで有難いなって感じです。僕は学生時代東京だったんですが、先輩とかと飲み会があるから、田舎へ帰った時とかわざわざ重い一升瓶を持って来る訳ですよ。当時、急行桜島とか、特急はやぶさとかで24時間ぐらい掛かって。

でも東京では飲まないんですよ、皆。こんな野蛮な酒飲めるかって言って(笑)。そういう時代がありましたね。

松井春澄:
今じゃ考えられないですね。

南社長:
でもあの当時の焼酎は今の焼酎とは全然違いますしね。

松井春澄:

確かに。作り方が違ったんですか。

南社長:
基本的に作り方は一緒なんですが、蒸溜した後の熟成の仕方が違います。昔は作ってそのままカメツボに入れて、まあ頃合いを見計らって出していたんですが、今の焼酎は最低3ヶ月ぐらいは寝かせて、それから冷却したり油をとったり、色んな匂いをとっていい香りだけを残してって事をしています。あの、手前味噌なんですけど、今は鹿児島の焼酎はどこも美味しいんですよね。昔は10年ぐらい前はちょっと首をかしげるようなのもありましたけどね。鹿児島のラーメン屋さんと一緒で、今はおしなべてどこも美味しいです。(笑)

松井春澄:

帰られてすぐ、飲食をやって同時にその頃から焼酎の方も始められたんですよね。勿論小さい頃から見ていらしたんでしょうけど、ご自分で焼酎を作る訳でもなく、帰って来てどういう形でその現場に取り組んでこられたんですか。

南社長:

最初帰って来た頃は、実家は酒蔵で、母が商売のきりもみをしていました。焼酎の方は冬の時代、昭和40年代は一番売れない時代でしたね。だから皆自分たちの蔵で作った分を自分達で営業していました。大きい所はそうでもなかったんでしょうけど、ウチみたいに小さくて、僕が出来るのは営業しか無かったんですよ。

トラックに乗って焼酎を積んで小売店さんとか販売店さんをまわって置いてもらうような事をしましたね。でもなかなか売れないんですよね。それで倉庫を見ると古いのが残っていて、酒屋さんも喜ぶし、自分は良かれと思って交換して帰ったら叱られましてね。(笑)そういう事はしなくていいんだと。でも結局小売店さんも良くしてくれて、取引量が増えたりというような事もありました。その頃は女将も助手席に座って一緒に売りにいった事がありましたね。

松井春澄:
自分の作っている所の杜氏さんで、味って全然変わるじゃないですか。その作って行く味の調整やアイデアはどう折り合いをつけるんですか?。

南社長:
杜氏さんは、僕が生まれた時から南酒蔵が合併する直前までずっと同じ方だったんですね。うちの父と同じ年だったかな。その杜氏さんはもううちを辞められてまた別の所へ移られたんですけど、やっぱり昔ながらの典型的な杜氏ですよ。焼酎を作っている時は来て、帰ったら漁業をやったり畑作ったり。半漁ないし半農ですよね。昔は大体杜氏さんが焼酎を作っていた時期は長くても4ヶ月ぐらいでしたから、あとの半分以上は失業する状態になる訳ですよね。ですから家へ帰って畑作ったり魚獲ったりしてる人が殆どでした。

松井春澄:
イメージ的には杜氏さんっていうのは、私の仕事で言い換えると調理人なのかなって思うんですが。

南社長:
全くその通りです。で、蔵工っていうのがいわゆる2番弟子みたいな。

松井春澄:
じゃあ味は杜氏さんの手に掛かってるんですね。

南社長:
そうです。食事を作っている時もいつも一緒ですよ。だから家族みたいな物ですよね。一番多い時には蔵工の杜氏さんも含めて5、6人いましたからね。母がご飯作ったり、そういう事をしてました。また漁師をやっていますから、泳ぎがすごいんですよ。ほら、潜って貝とか取りますでしょ。僕らは泳ぎは杜氏さん達から教えてもらったんです。すごいですよ、プロですから。海女さんが使うような桶に僕らを乗っけて、沖まで引っ張って行ってくれるんですよ。で喜んでると、そこでひっくり返すんですね。(笑)嫌でも泳ぎを覚えるっていうか。

松井春澄:
味の安定とかはどう保つんでしょうか。杜氏さんは一人だけなんですか。

南社長:
そうです。一人です。今は杜氏さんを置いてる所は少ないです。今は工場長という名前で、要する年間契約しているんです。でもやっぱり焼酎作ってない時期は畑を作ったりしているので、刈入れの時とか休みあげて、また終わったら帰って来ると。僕と同じ年なんですけど、まあ下積みの時代から杜氏さんに仕えて、いわゆる叩き上げの純粋な杜氏の履歴を持っているのは彼が最後でしょうね。

松井春澄:

杜氏さんの数は減っているんですか?。

南社長:
そうですね。でもまたこの最近の焼酎ブームで杜氏をしたいっていう若い人が出て来てますし、こちらも育てたいんです。今鹿児島大学の農学部の中に、地元の蔵本が寄付をして、焼酎学講座っていうそういうのを始めたんですよ。だからゆくゆくは鹿児島大学の農学部の中に、醸造科っていうのを作って欲しいなっていうのが有るんです。今は東京農大の醸造科しかありませんから。また農学部ですから、芋の栽培なんかもすごく関係があるんですね。

松井春澄:
原料としても関わりがあるんですね。それに杜氏さんが作っている味にもこういった方向で作っていいんじゃないかみたいな意見も言えて、一緒に作って行けるし。

南社長:
その辺はね、よく他の蔵元の人とも話をするんですけど、今、こうして焼酎がやっと日の目を見て来たじゃないですか。結局それも技術を向上して来た結果なんですね。熟成の方法とか濾過の方法とか試行錯誤して、今本当にすっきりしてきて、飲み易くなって来たって様な形になって来ましたよね。逆に最近はもっと芋くさい焼酎をが欲しいというような声もあります。

松井春澄:

一時すごい飲み易くて、却ってすっきりし過ぎた感もありましたよね。

南社長:
そこのジレンマみたいのはあるんですよ。それを良くいえば個性を出すという事なんですが、取り敢えずやっぱりきちっとした作り方をやって、その中で蒸溜や濾過や熟成とかで、どう味の変化をつけられるかって思っているんですが。

松井春澄:
あの、賞を獲られたじゃないですか。金賞を。それも喧々囂々してどういう味を出そうかという話し合いがあったという事ですよね。

南社長:
そうです。うちの場合は必ず、杜氏さんと工場長が仕込んだパターンを3つぐらい出して決めるんですね。僕は駄目元で一番癖の強いやつこれで行こうって、それを出品したら金賞で。その辺が面白い所なんですが。

南九州の熊本関税局が、本格焼酎を司っている一番のお役所なんですね。これが、大分、熊本、宮崎、鹿児島で作っている焼酎を一堂に集めて品評会をしているんです。まあ野球の甲子園のようなものですよね。甲子園行くより難しいかも知れない(笑)。芋焼酎の場合、南九州四県で130社ちょっとあるのかな。銘柄にするともっとありますけど。優等賞っていうのが有って大体全体の3割ぐらいで、その中の一位をいただいたんですね。

松井春澄:
すごい。素晴らしい。(笑)

つづく >>>

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